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涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野

やっとこさ、重衡さんショックから立ち直ったので
忘れないうちに旅行記録を認めようと思います。

【日野での訪問場所】
 合場川
 琴弾山
 平重衡の墓


まず京都駅から最初に向かったのは京都市伏見区日野。

ここは、平重衡卿の北の方 藤原輔子
(当時女性の名前は伏せられるので役職名の大納言典侍と呼ばれてることが多い)と
斬首の前日に最後の再会を果たした地です。

一の谷の戦いで捕えられ鎌倉に送られていた重衡が、
壇ノ浦での平家滅亡後南都の要請で奈良に送られる途中のこと。

二人が再開した場所に流れていた川は後にこの逸話から『合場川』、
大納言典侍が重衡の行列を涙ながらに琴を弾き見送った丘陵を『琴弾山』と名付けられたそうです。

ということで、重衡卿の墓のある場所まで
最寄りの石田駅(地下鉄東西線)から約15分近くあるのでその後のことを考えると
一気にバスかタクシーで移動したかったのですが、
この合場川と琴弾山が
ちょうど駅から川沿いに沿って進み中間辺りに当たり
車は通らない道に面しているので頑張って歩くしかない。

涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_21355287.png
涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_2136571.jpg涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_2136016.jpg


【合場川&琴弾山】
京都府宇治郡名蹟志には                 
 相場川(合場川)
 醐南端にあり、平重衡源氏の囚虜となり
 鎌倉より南都に送られるとき内室此處に要して 
 對面せしより此稱あり。

 琴弾山
 相場川背後の丘即ち之れなり、内室重衡に別る、
 に臨み琴を山下に弾きし別離を惜みし所として此稱あり。

  石田岡(琴弾山)         
   琴曳山一帯の地を伝ふ、古來和歌の名區なり。              

  重衡墓
  小字外山街道十三番地民家の裏に在り、重衡義経に囚われ木津の邊りに斬らる、
  (七百三十年前)内室その首級をこの地に葬り佛心寺に居り其瞑福を祈る、今其佛心寺なし。


という記録があります。

平家物語「重衡被斬」この二人の再会が詳しく書かれています。

いかにもして、今一度御姿を見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思ひおくことなし。
出家して形見に髪をも奉らばやと思へども、許されなければ力及ばず」とて、
額の髪をかきわけ、口の及ぶ所をくひ切つて、「これを形見に御覧ぜよ」とて奉り給ふ。

・・・・・

「あまりに御姿のしをれて候ふに、奉り替へよ」とて、袷の小袖に浄衣を出だされたりければ、
三位中将これを着替へて、もと着給へる物どもをば、
「形見に御覧ぜよ」とて置かれけり。
北の方、「それもさる御事にて候へども、はかなき筆の跡こそ、長き世の形見にて候へ」とて、
御硯を出だされたりければ、中将泣く泣く一首の歌をぞ書かれける。

  せきかねて涙のかかる唐衣のちの形見にぬぎぞかへぬる

北の方の返事に、

 ぬぎかふる衣も今は何かせむ今日を限りの形見と思へば

契りあらば、後の世にては必ず生まれ合ひ奉らん。
一つ蓮にと祈り給へ。
日もたけぬ。奈良へも遠う候ふ。武士の待つも心なし」とて出で給へば、
北の方、袖にすがつて、「いかにやいかに、しばし」とて引き留め給ふに、
・・・・・

北の方御簾の際近く伏しまろび、をめき叫び給ふ御声の、門の外まではるかに聞こえければ、
駒をもさらに早め給はず、涙にくれて、行く先も見えねば、駒をもさらに早め給はず、
涙にくれて行く先も見えねば、なかなかなりける見参かなと、今はくやしうぞ思はれける。
大納言佐殿、やがて走り付いてもおはしぬべくは思しれけれど、そ
れもさすがなれば、引きかづいてぞ袂し給ふ。


簡単に端折ると、
重衡は自分の髪の毛を食いちぎって形見にと北の方に渡します。
(もうここのところは涙涙。・゚・(ノД`)・゚・。 うえええん
涙なしには読めない!!!)
薄汚れた重衡の姿に北の方は用意していた浄衣に着替えさせ、
重衡の衣を形見にしますと歌を贈り合います。
契り合っていれば後の世にはきっとまた出会えるでしょう。
同じ極楽浄土の蓮の花になれるようお祈りくださいと、
もう少し一緒にいたいという北の方を振りきって旅立つ重衡の後を
泣き叫ぶ声が追いかけていく・・・・っという感じでしょうか。

正直、琴弾山がわからなかった(;´Д⊂) あう‥
周りに丘らしきものは見当たらないのです。
結構平地・・・・
山に囲まれてますがスピーカーがなければ音などはというくらい遠い。
合場川のバス停すぐ後方がこ琴弾山だと、
伏見区のwebのあるので
まあこの当たりかなと眺めながら先へと進みます。
(すっかり住宅地なのでかなり造成されていると思われ)


【平重衡塚】
住所:京都府京都市伏見区醍醐外山街道町23
    京都市市営辰巳住宅5棟隣の公園内
交通:石田駅(京都市営地下鉄東西線)から徒歩約12分

合場川から別れて約5分。
平重衡の墓に到着。

市営住宅の一角にきれいに整備された公園がありました。
念願の平重衡の墓です。
涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_3122551.jpg涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_3121852.jpg涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_3121195.jpg涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_312276.jpg


北の方は斬首された重衡の首から下を引き取り、
日野の法界寺(流布本では佛心寺)で荼毘に付し墓を立てます。
後に奈良で晒された、重衡の首も引き取り荼毘に付しています。
骨は高野山へ送られました。

重衡の亡骸の所在については諸説あり、
どの部分がどこにあるのか確かなことはわかりませんが、
まとめると
日野の墓には灰が、高野山に体の灰、頭部が木津の寺ということになるようです。

この日野の墓も、
元々は民家の一角だった場所に市営住宅を建てる為に移転も考えられたが、
灰が収められているということで場所を変えずにそのまま残されたという記録が
あるようです。

訪れたのが冬だったので墓標の後ろの椿がいくつか花を綻ばせていました。
春になれば後方の桜がきっと綺麗に咲くのでしょう。

と、
目的を果たしたかに思われた日野の地ですが
重衡の墓を示す道しるべに出会っていない(;^_^A アセアセ・・・

団地のセンターで尋ねてもわからない・・・
仕方なくぐるりと歩くこと2周

あったぁ!
公園の一つ先のブロックの角に『従三位 平重衡卿墓』の石碑
涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_315513.jpg


これで日の出の目的は完遂。
次の予定地、重衡終焉の地木津へ。
合場川から別れたところまで戻りタクシーかバスでJR六地蔵駅を目指そうと大通りへ。
通りに出るとバス停がすぐ近くにあり、既にお年寄りがベンチで待っていたので
隣に座ってバスを待つことに。
石田ではなく六地蔵行きのバスが多いので六地蔵へ向かう。
涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野_b0234622_3151482.jpg

バス停から撮った写真が上の道路標識。
奈良街道
・・・・正にこの道を通って重衡は最期の地へ向かったのです。

                        (訪問2011.01.31)
by timoring | 2011-02-01 21:10 | 歴史ー史跡巡り


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